とおりぬけ むようで とおりぬけがしれ
中学だったか高校だったかの国語の授業で目にしたことのある川柳である。誰の作かは覚えていないが,「“通り抜け禁止”と看板等に書くことによって,かえって他人様に“ここは通り抜けができる”ということを知らせてしまう」という意味である。
去る 7月 23日に起こった全日空機ハイジャックは,機長の死によってまことに痛ましい“事件”となった。ここに至ってようやく世間も事件については静かになってきたが,事件当日も含め,しばらく騒々しく報じられたのは,人のよく知るところである。あるワイドショーでは,被疑者(犯人)が羽田空港の到着ロビーに続く階段から搭乗待合室に逆行したことをもって,「(空港の盲点をついた)恐るべき手法」などと大袈裟にいっていたが,あんなものは空港をよく利用する者であれば知っていて当然のことである。もちろん僕はそれを知っていたし,そのワイドショーにおいても,スタジオの司会者のひとりは,自分も気づいていた旨を指摘していた。
その,到着ロビーに続く階段を降りたところには,(すでにテレビでも多数報じられているゆえみなさんもよくご存じだろうが)次のような表示がある。
ここは通り抜けできません。
実は,この表記については,僕は常々疑問を抱いていた。通り抜けできないわけではなく,通り抜けてはいけないだけではないか,と。この点は,さきのワイドショーの司会者も同様の指摘をして,通常の人間ならば「できない」と書かれているのを「してはいけない」と解してそれに従うものだ,と述べていた。
とりわけ我々のような法律に深く携わる仕事をしている者には,前掲の表記に強い違和感を持たざるを得ない。技術的・物理的に「できる/できない」という話と,倫理的・規範的に「してもよい/してはいけない」という話とは,まったく性質を異にするからである。もっとも,国語的には,許可を意味する「してもよい」はしばしば「できる」と表現されることもある ――法令でも許可(禁止しない)の意味で「できる」という表現を用いることはある―― が,その対義語が同じ「できない」であるはずはなく,「できない」と「してはいけない」とは峻別され,我々はこれを当然のこととして扱っている。
ところが,一般には「できない」と「してはいけない」の両者は,混同されることがしばしばである。ここに,ある理系の学生との会話を引用しよう。
「先生,音楽 CD を MP3 にして(サーバに)アップロードすることはできますか?」
「できるかできないかといわれれば,できるでしょう。」
「じゃあ(そうしても)いいんですか?」
「そりゃあいけないよ(苦笑)…」
答えを聞いて,その学生は首をかしげていた。彼にしてみれば,最初の質問は「していいのか」というつもりでしたのだろうし,またあとのは「(いいというからには)問題ないですね」というつもりでいったのだろう。
話を元に戻して件の表示(看板)である。僕は,少なくとも空港のような公共の場においては,「してはいけない」趣旨のものを「できない」で表記すべきではないと思う。無論,倫理観のない者や判断力のない者にはどちらにしても無用のものだが,はっきりと「ここを通り抜けてはいけません。」と書けばいいのだ。もっとシンプルに,「通り抜け禁止」でもいい。「禁止!」と書かれたからといって,別に無礼には感じない。銀行にある「お入口」や「お出口」のような,慇懃無礼な表記よりはよっぽどスッキリしていていいだろう(笑)。