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1998/08/02

試験に関する私見


去る 7月中旬,大学法学部で通年の講義を担当することになって初めての前期試験というものを行った。僕自身,大学院生時代は(レポートが課されることはあっても)試験というものとは無縁だったから,受ける側から出す側へと立場を変えてのほぼ 5年ぶりの試験ということになる。今回,出す側として初めて臨む試験にあたり,いろいろとやってみようと密かに考えていることがあった。そしてそのうちいくつかを実行したのだが,――

大学の定期試験に関していえば,これらの試みは珍しい部類に入るらしい。とりわけあとのふたつについては少なからず大学の学務の人の驚きを誘ったようだし,受験者たる学生諸君もいささか面食らっていたようであった。

実は,これらの試みは僕の学部生時代の経験と無縁ではない。

今でこそ学問を生業としているが,学部生のころは真面目に勉強するほうではなく,おかげで成績もあまり芳しくはなかった。頂戴した成績も A よりは C のほうがずっと多い。その C がたくさん刻まれた成績表を受け取って,そのたびに思ったのは,「どうしてこんな成績がついたのか?自分の答案(の書き方)が悪かったのか?だとしたらいったいどんな答案を書けばいい成績がついたのだろう?」という疑問であった。中にはついぞこの疑問が解けなかった,すなわちどうしてそんな成績がついたのか得心のいかなかった教科もあったが,たいていはあとになって教科書等を読み返し,「ああ,おそらくはこの辺のことを答案に書けばよかったのだろう」と反省とも後悔ともとれる思いをしたものだ。読書をしないクセになぜか文章を書くことは苦にならない僕にとって,自分の頭の中で教科書等を参考にしながら改めて答案を練ることはたやすかった。これは,いわば“試験の復習”であるが,こうすることによって次の機会にはもう少しマシな答案を仕立てられるようになる (“予習”をちゃんとやっておけばこんな思いをすることもないのだがねぇ),というわけだ。次の機会において教科は異なっても,ポイントとか要領はたいして違わないはず。だからこそ次に活かそうと思ったものだ。

翻って,現役の学生諸君にこうした “予習”,せめて “復習”を期待することは…残念ながら難しい。「どうしてこんな成績がついたのだろう?」と思うことはあるかもしれないが,それをもって“復習”を試みようと考えるのは稀だろう。思うに,そうした能力が彼らにあるかどうかという問題ではない ――たしかに,解答の内容はともかく論述力・表現力に欠けるというものもあるのだが――。彼らがそういうことをしようと考えるかどうかなのだ。そして,このことは,それまでの彼らがほとんど常に模範解答を伴った試験しか受けていないこととも無関係ではあるまい。もとより論述試験に唯一の解答などない。模範解答を作ること自体がナンセンスだという向きもあろう。しかし,学生諸君が(一部ではあるが潜在的にでも)それを求めつつも自らはせず,またなしえないというのなら,いっそのことこちらから与えてやろうと,僕は考えたのだ。

教員は,目の前にいる学生と自分の学生時代とを重ねて,すなわち自分がかつてそうだったように「学生は勉強するものだ」と思いこんではいけない。別に今の学生をナメているわけではないが(現に僕自身は前述したように「勉強しない学生」だったのだから),「学生は勉強しないもの」というのは悲しいかな現実であり,むしろ常識ですらある。今や教員はこの現実/常識を知らねばならず,またこれから目を背けてはならないだろう。

さらにもう一点,僕が今回の試みを実行した理由は,「どうしてこんな成績がついたのか納得できない」と学生諸君をして思わしむることを避けたかったというのもある。もとより,採点にあたっては文字の見やすさなどをも含めた“答案の全趣旨” ――民事訴訟法 247条にいわゆる「弁論の全趣旨」に引っかけた―― を斟酌して心証を形成するゆえ,同じ内容の答案だからといって必ずしも同じ点数がつくとは限らない。しかし,例えば「この記述が評価された」とか「この点に触れておくとよかった」とか「主語・述語がおかしい」というように添削されていれば,一応の目安にはなるだろう。

今回僕の作成した試験を受けた学生諸君は,はたしてこうした試みをどのように受けとめてくれただろうか? ――もしかしたら迷惑千万だったかもしれないが――。彼らが,このあと何度か受けるであろう他の試験に,ひいては彼らが卒業後の就職先等で何か書類を作成する際にでもいい,何らかのかたちで“あの”それぞれの答案を活かしてくれたら,僕にとってこれ以上の喜びはないのだが…。




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